「君は今すでに中2だけど実は小4の段階で躓いているので、数学ではなく算数からやり直す必要あるんよ」を心を折らず伝えるコミュニケーション能力が求められる - Togetter [トゥギャッター]
https://togetter.com/li/2445112
ChatGPTに頼って論文とか探しながら勉強するスタイルになって特に強く思ったけど、
特定の段階に戻ってって発想で勉強しても結局メンタルモデルの書き換えができなければ何にもならないので、戻るんじゃなくて欠けてる部分を概念からメンタルモデルを形成する形で勉強するってしないと、どこに何度戻っても結局何にもならない><
@hadsn 自分で気づけないコード上の問題点が云々じゃなくて、「こんなコード人に見せられないよ!><;」って認識してる部分をなおす気力が足りてない時にはソースを公開しないみたいな感じ><
逆に人のコードを見て「(こんなコード、よく人に見せようと思ったね!><;)」って思うこともある><(この前のカイロソフトの事例とか)
実際に聞きに来た人はいなかったと思うけど(居たかもしれないけど覚えてない)、ソースを公開していないオレンジが作って配ってたソフトウェアで「同じようなのを作りたい人がもしいたら、どうやったら作れるか教えてあげるし、部分的にソースコードをあげるから聞いてね!><(意訳)」って表明してた時期はある><
https://mstdn.nere9.help/@orange_in_space/101222900955041950
Matt さんのムーブについて、いろんな方の意見をチラチラ読んでいる。
#OSS の成功事例の代表格である #Wordpress でおきたことで、OSS そのものの限界を感じるという意見もあって、なるほど、うむむ、ともやもや考えている。うむむ。
#OSS は手段の一つ、というのは結構前から思って
英語圏を #Vivaldi でエゴサしてたりするとよく #OSS を推している人から二言目に「ただ Vivaldi は結局 OSS じゃないからさ(だめ)」とか「まずはソースコード公開してから出直してね」みたいな雰囲気のコメントがついていたりするんだけど、そこまで #OSS そのものをひとつの理想とかゴールだと考えるのはちょっと自分にはやり過ぎ感があって、もうちょっと「手段に近いもの」だと考えた方が、#OSS を作る人にも使う人にとってもよいのでは…と、今回の #WordPress のニュースなんかを追いながら考えてた。
#OSS にも良い面と悪い面があって、そのメリデメみたいな話は「Vivaldi がオープンソースでない理由」(下記)のなかでも触れられていて、Vivaldi は OSS とかなり近い理想を目指しながら OSS というものも一つの手段として評価しながらそれも大事にしつつ、今実現できる最大限の理想に向けて進んでいる感じが応援できるポイントでもあって。
https://vivaldi.com/ja/blog/why-isnt-vivaldi-browser-open-source/
そう考えると、#OSS として存在し続けることの難しさとか、「理想像としての #OSS」みたいなものを実現させるのはむずかしいのかもしれない、ということを、今回の #WordPress の件とか、最近の #Mozilla 周りのニュースとかをみてもやもやと考えていると思うことではある。
ただ、そう考えていった先に何か新しい、より理想的で現実に実現し得る何かがあるとしたら、それは #OSS そのものを全否定するものではないと思うし、そうであってほしいと思う。