もちろん現実的にあらゆる公理や入力を列挙することは不可能なわけだが、それが不可能であることを双方で認識したうえで必要な箇所の暗黙な前提を認識し開示していく作業こそが、合意に至るプロセスとして必要だ
人々はその暗黙の変数や公理の非互換を責任転嫁して、「論理だけでは不十分だ」などとあたかも論理的であることが不完全かのように言うが、これは見当違いで全く原因を見ていないと言わざるを得ない
人間向けの創作が人間ライクな思考をする主人公を据えないと読者が受け取ることができないというのと似たようなもので、全然別の社会を想像しようとしたって我々はある程度の互換性を備えたものしか受け取れないのだろう。
現行の社会と同程度に “内部の人々からそうあれと望まれる” ような社会で、我々と相容れないような社会制度が、存在するかもしれないということです。
それがどんなものか具体的に想像することはできなくても、創作に垣間見えることはあるだろうし、そうでなくとも「共有されないかもしれない仮定や文脈」の範囲を自覚する助けにはなる
人々が自分の思考の 論理学::健全性 や 論理学::完全性 を気にすることは基本的にないし、それでもなんとなくそれらしい感じで論理というものは社会基盤に使われている。
我々が現行社会のイデオロギーとそれに強く紐付いた自然言語で思考するような概念が、それらを離れた場所で “正当性” を持つことが当然であると信じる理由はあまりないんじゃないかと思います