三つ目の論点として、円周率が正しいことを (その性質を利用して) 検証するのと、円周率そのものを導出するのは、問題としての難度が全然違いますよね。
たとえば 7194667284607936697938603328569 の最小の素因数を求めるのと、 7194667284607936697938603328569 の最小の素因数が 2031443 であることを検証できることは全然違う。
二つ目の論点として、 “たとえば” 円周率は実際のところ具体的な値よりもその性質の方こそが利用されているのであって (具体的な値は計算の過程で発生する定数にすぎない)、その値を求める計算自体に本質的な重要性や価値があるとは限らないですよね。
まず一つ目の論点として、「円周率を求めるひとつの方法を再発明できたとして、そこに基礎としてどれだけの価値があるか?」という話がある。
その方法が円周率の値を求めること以外に応用できないのであれば、可能な知的行動の範囲は円周率の値を最初から知っている場合と大差なくないですか?
それを暗記と言うのであれば、その informal な納得の領域というのは言語をはじめあらゆる領域の根底なのであって (人間の知能の bootstrap はそのように行われるので)、そもそも人が「理解」していることがひとつでもあるんですか? と問いたい。
誰も達成しえない空想上の目標を全員に達成させる手段を問うほど虚無なこともないので。