もちろん規模が同じでも性質の大いに異なる地域形成は可能なのだろうけど、それは規模レベルで大小の差が大きい場合に比べて多大な追加コストが必要になったりしないだろうか、そして人口の減ってゆく社会でそのコストは負担できるのだろうか、とか
こういうのってグラデーションなわけで、下手にどこかに境目を引いてしまうと「この規模以下の地域は維持困難だから廃していく、この規模以上の地域は肥大化しすぎて SPoF になりかねないから小規模化していく」みたいな感じで都市の規模を特定の範囲に収まるように調整していく感じになっても不思議ではないように思われる (素人考え) んだけど、そういうのはどちらの文脈 (都市肥大化しすぎ/田舎つらすぎ) においても許容できるってことなんですかね
それ (都市の規模が特定の範囲に収まるように調整) って潜在的には都市の均一/均質化を促進しかねないのではという気がしており、素朴には諸手を上げて賛成できるアイデアではないような気がする
ただカウンターとして「分散のコストとリスクはたしかにあるし向き合う段階に来ている。しかし、一極集中していることも本当に大丈夫なの?」というのはぶつけたいなぁという気持ちもある。都会人が田舎に対して経済的合理性と正論で殴ってる、という構図で終わる話にしちゃいけないと思うし。
田舎のわりと住宅密集地に住んでいます。いわゆる限界集落とか言われるところを訪れているうちに、以前から集団移住はありだろうと考えていました。しかし、今回の米山議員のツイートのように「地震を機に」というのは乱暴な議論だと思います。
個人的な案では、移住は平時から検討委員会的なものを設けて、例えば家の誰かが結婚とか亡くなったとかを機に、山を降りたところの市街地とか県庁所在地とかまで来てみませんか?というスタンスで、行政も勉強会を継続的に開催して、十年くらいの単位で合意形成を取りつつ徐々にやっていかないといけないのではないかと考えます。それでも残った人と移住していった人のコミュニティはどうなるとか問題はありますが…。
いずれにせよ、合理主義的視点が行き過ぎて住む人の気持ちも考えずに「あなたがここに住むのは無駄が生じて困っているんだから今すぐ移住せよ」というのは短絡的で腹が立ちます。
村がダム湖に沈むから村民は反対したけど、政治家や役人が足繁く通って治水の重要性を説いて、結局ダムは作られた例は過去にたくさんあるはずで、説明の仕方、時間のかけ方の問題だと思います。