理解のために整理された図が有用なのは同意するし、理解している人が整理された図を書ける蓋然性が高いという推測ももっともらしいと思うけど、だからといって「理解できる人は概念を理解するためにとるノートが整理されている」がいえるかはかなり疑わしいのでは
「地頭」とか「素質」とかまあ何でもいいんだけど、それが何を指すかが問題の本質なのであって、たとえば「同じ時間と同じ精神的苦痛と同じ体力で得られる成果が違う」みたいな意味で言っているのなら明らかに個人差があるし、そういうところの定義をとにかく共有してから話を始めたいという感想
いや…ほんと言うとね、人によって「知能の上限」があって、じつは義務教育の目標が高すぎるのではないのか、という思いはある。
だれもがオリンピック選手になれるわけではないのと同じく、個々人の頭にも限界があり、理解できることの上限が決まっているのかも知れない。