いつだったか、データベースの授業で「"種別" 列の値が 'りんご' のレコードと 'みかん' のレコードを取り出しなさい」ってやったら、「 "種別" = 'りんご' AND "種別" = 'みかん' 」って書いちゃう学生が一定数いたし
そして「それ違うものを同じ名前で呼んでいるよね」と指摘されたとて、それを受け入れて切り分けようとするような抽象的思考を持てる人だけではない、という話でもある。切り分けることを良いことと思えない人に切り分けるモチベーションは発生しない。
すべてを「ずるい」だと思っている人が、その「ずるい」をそもそも区別しようとするかというと、よほどの切っ掛けでもないと自発的に切り分けようとはしないだろう (巷で暴れる人々を見ているとそう思うことがある)、という感じ
これマジでどっちの立場で喋ってるのかわかりづらくなってるな。
「語彙がないというのは場合によっては原因ではなく『思考の深さが不十分である』ことに起因する結果である可能性があるし、逆に語彙がないことが思考の深さが不十分であることの原因である可能性もある。まず根本的な原因になっている方を先に解決しようとするべきで、語彙だけに着目したり語彙以外の部分を無条件に優先しようとするのは効果的と思えない」というのがまとめ。
概念が区別できて別の名前を付けられることに気付けるというのは、既に相応の言語化の能力があるからだろうし、そうであれば語彙なんて都度辞書を引いていればそのうち勝手に補充されていくから大して心配する必要はないと思える。
そうでない場合こそが問題。
内心で発生する感情の動きの幅や敏感さ自体はいわゆる情緒ってやつの範疇で語るものだと思うんだけど、それを後から振り返ってみたときどう自認し再確認するか、そういう部分には語彙の豊かさは結構シビアに影響しているのではないかというのが私の (根拠のない) 今のところの考え。
ゆえに「難しい言葉を知らずとも平易な言葉の組み合わせで表現できるなら表現としてそれでいい」というのは一理あると思いつつ、しかし実情として「言葉をあまりに知らないと概念をそもそも区別できない (区別できるものだと気付けない) リスクがかなり高く、従って表現も語彙とは別の理由から貧弱になる」ということはいかにもありそうだということ。
これずっと後で見たときふんわりしすぎて何のことだかわからなくなってそうなので補足するけど、たとえば「卑怯だ」と「妬ましい/羨ましい」を両方「ずるい」としか言えない人がそれらを内心で区別できるかとか、たとえば「因果応報で人が酷い目に遭うのは気分が良い」と「体を動かすとすっきりする」を「おもしろい」としか言えない人がそれらの楽しみを区別できるのかとか、そういう話です
その「備えていないと思考そのものが貧弱になってしまう最低限の語彙」がどの程度のものなのかがわからないのが (そして自分がそのラインに達しているか自分では判断が難しいのが) 問題なのだろうけど