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ウインドズーはGUIアプリでしか使えないのが多すぎてCLIでよしなにするときに厳しいからすべてのGUIアプリはCLIでも使えるようになってればよいのでは
ああなるほど、単に探したり入手が面倒って話ではなくて、他と連携することを考えていないソフトウェアが多いって話ね…
その通りで存在はどうやって知るのか?><とかみたいな問題><
manはおろか存在も知らずには使えないのはコマンド群も同じでは…
微妙にわからない点は、オレンジ的には「シェルスクリプトを書けば」でも、それはそれを解決するための何かを知っていないと書けないのでは?><という点かも><(話の発端の頃の、Windows 8~10の「検索すればいい」とか「ピン止めすれば」じゃ駄目な理由の話が同じ話かも><)
たとえば python とか ruby とかの標準ライブラリ、あれリファレンス見ずに使うの無理ですよね
多分そういう話ではないと思うんですが、バッチファイルか、さもなくばLINQPadで C# を…(似たような話がTLに流れてきたのを見て手が止まる
オレンジがやるとしたらVS起動してC# で使い捨てアプリを書くかも><;
たとえば私がよく使ってるスクリプトのひとつに「 zip ファイル内の画像を jpeg に変換して、指定の割合で縮小して zip に再圧縮する」というのがあるんですが、これを windows でやろうとすると最初にやることは「フリーソフトを探す」ですよね
これ、WindowsでもWindows版の ffmpegを使ってバッチファイルなりパワーシェルのスクリプトなり書けば同じでは・・・?><;
「WALKMAN 用動画変換ソフト」と「PSP 用動画変換ソフト」が別々に存在できるということがちょっともう私には無理(しかも中身は両方とも ffmpeg のフロントエンドにすぎない)
UNIX ならスクリプト書いて実行するだけなので
たとえば Windows で「 zip ファイル内のほげほげ種のファイルをふがふがしてぴよぴよに書き出す」みたいな処理をしようと思い立ったときフリーソフトを当たることになり、険しい(典型的には「WALKMAN 用動画変換ソフト」の存在など)
そうではあるだろうけど「どちらを優先するか?」かも>< UNIXは「正しさ」を犠牲にしてUNIX開発者にとってのシンプルを優先してそして移植性を重要視して、結果、弄ってくれる人が爆発的に増えて成功したかも>< でも、正しさは犠牲にしたので設計は正しくない><
UNIX哲学におけるバッドノウハウ、それはそうみたいになるけどそれとしてUNIXをやり玉にあげる前に大体どれもバッドノウハウで回してるものばっかりなのでは
UNIXって結局の所PDP-7のとてもとてもチープなハードウェアの都合に合わせたトリッキーなバッドノウハウ(しかもCに書き換える前)を「シンプルだ!」とか言って使い続けてるような感じだし、NTを作ったカトラーおじいちゃんが「UNIXはゴミ」って言うのも背景を辿ると良くわかるかも><
UNIX哲学みたいな方式だと大量のバッドノウハウの蓄積によるコミュニティみたいな様相になるから、それを好み続ける人は大量に出る><(でもそれはバッドノウハウ><)
分け方が違う>< 「プログラマである」みたいな意味での「開発者から見て」じゃなくて、「UNIXを作る時に」の方>< その上で動くソフトウェアを作る方も(『も』というか『が』)その話ではユーザー><
そうではないと思うんだけど、短く説明するの難しい><;
UNIX の設計された当時ってそもそも計算機を使うということがプログラミングをすることだったわけで,開発者にとってシンプルなんじゃなくてあれはユーザーにとってシンプルなんじゃないかな。
思考の /dev/null