wikipedia のフォーマットで “参考文献” への参照とともに作られた嘘記事はたくさんあるし、その訂正が拒絶されることもあるし、そしてそれは「ファクトチェック」についても同様で、ファクトチェックの形式とともに嘘をそれらしく主張することはできる。
この点で「フラットだと証拠がなくて集約型ファクトチェックだと証拠がある」みたいな主張は根本的に正しくないようにみえる
プラットフォーム公式ファクトチェックのバイアスに対して「草の根で対抗」すればいいという話になるなら、最初から全部草の根のほうが中立性の担保として安全側じゃないですか? 「公式」チェックという、それそのものがチェック対象な (しかも公式は自身を無条件にファクト扱いするであろう) デカい声がひとつ増えただけになってしまうし。
ひとつの「真実」の座を、現象としての真実そのものの参照ではなく真実への「言及」から集める必要がある以上、集める人はそこにバイアスをかけられるわけですよね。
で、「草の根」でやるならそのバイアスにも多様性がありうるからまだマシだねという話に「プラットフォームに権威としてやってもらえば全部集まるじゃん」と返してしまうのは、バイアスの可能性を無視してプラットフォームの善性を無条件に信頼しているのとほぼ同じに見えます
ていうかだからこそ、ファクトチェック自体が議論というか、議論つきの資料集めスクラップブックっぽい感じの実装にすればいいんじゃないかみたいなアイディアを昨日書いた><
https://mstdn.nere9.help/@orange_in_space/113818535471447268
https://mstdn.nere9.help/@orange_in_space/113818577927088909
非対称なパワーの存在を無視してしまうなら、たとえば公式な「facebook_factcheck」アカウントなり「twitter_factcheck」アカウントなりがファクトチェックして回れば済むわけで (それ自体も賛否あろうが)、 特別なシステムなんて最初から必要ないじゃないですか
https://mastodon.cardina1.red/@lo48576/113824832406397371
受け手によってはマスコミも UGC プラットフォームも場合によっては政府も「中立性に信頼がおけないが、人に『私は中立公正です』という顔をしながら情報を押しつける人」に見えているわけで、だからこそその権威の使い方を問題視されているのでは?
問題の本質はファクトチェック可能性そのものではなく「中立公正であるという主張は非対称なパワーを使う言い訳としてどこまで許容されるのか」なんじゃないですかね
巨大プラットフォームにおける「ファクトチェック」が問題とされることについて考えるなら、批判可能性の話だけでなく「権威付け」をどのレイヤーで行うかという情報押し付けの非対称性は避けて語れないと思います (もっと古くの文脈に繋げるなら推薦の「アルゴリズム」の問題からずっとそうだった)
https://mstdn.nere9.help/@orange_in_space/113824796998311082
たとえばこれも、非公開投稿でない限りはブロックしようが何しようが外部から「ファクトチェック」は可能なわけで、ブロックしない動機として理屈が成り立っていないように見えます