シドニー オケラハウス
#頭に舞い降りた謎ワード
1956年のカルフォルニア オートクラブレースウェイ。
1台の小さなカブトムシによって、彼らの未来は大きく開かれた。
NHRAのドラッグレース史において最初の競技用ビートルはEMPIのインチピッチャーだ。
この全ての始まりである伝説のマシンはEMPIのパーツを宣伝する目的で作られ、50 年を経た現在でも、時速 161.8 マイルの速度での 13.30 秒の走行や0.5 マイルのドラッグ レコード 115.53 秒など、NHRA の多くの記録を保持している。
それを目撃したビル・クラークソン氏はビートルのドラッグカーを制作することを決意した。
彼は手作業でエンジンを組み、特注のクランクケースや手作業で機械加工された吸気バルブ、そしてドラッグビートル史上最大のエンジンを作り上げる。
こうして同じく1956年に生まれたのがイグアナだ。
インチピッチャーと肩を並べるように様々なマシンと競い続け最高時速 110 マイル以上。コースを 11.9 ~ 12.1 秒で駆け抜けた。
次に生まれたのが、アンダードッグとタールベイブだ。これは70年代初頭にロン フレミングとグレッグ アロンソンの2名によって作られた。
彼らは今も人気のスタイル「キャルルック」の基礎を築き、この他にもドラッグビートルをいくつか作り出した。2台のカブトムシははNHRAで暴れたあと、メキシコシティに移住しメキシカン・スーパー・ストリート・チャンピオンシップで2年連続優勝という快挙を遂げる。これでビートルはどこの国で偉大なドラッグカーだということが証明された。
このように暴れ回ったカブトムシ達だが、まだまだ世間の認知は浅いもの。やはり「ビートルなんて遅い」という風潮が強かった。
しかし、これが変わる日がやってくる。
1960年 ポールとマーク・シュリーのライトニングバグがついに10秒台を切ったのだ。
「コレはマズイ」とNHRAは特別に
Modified Compact カテゴリーを設立。ついにビートルは公式に認められたのだった。
しかし、12年後にこのカテゴリーが廃止され、ビートルたちはNHRAで走れなくなってしまう。
それでも飽き足らないマニアたちはVW専用のサーキット「PRA」を設立し、長い間「ビートルによる、ビートルのための、ビートルだけのレース」が繰り広げられ、今現在でカルフォルニアという枠を超えた大きな協会として、今日でも機能している。
こうしてカルフォルニアにはビートルの聖地として、現在でもたくさんのイベントが開催され、マニアたちは今日も賑わっていた事だろう。
それにしてもたった1台のカブトムシからここまで大きくなるとは、当時関わった誰も予想していなかっただろう。
バタフライエフェクトならぬ、ビートルエフェクト。これはそう言っても差し支えないかもしれない。
JH1→HT81S→NCP131→JW5→ZC33S & L235S
発作マグナキッド