ねこです。
noteの記事が間に合わなかったのでつぶやきだけ投稿した
https://note.com/nezuko_2000/n/n327a462a7cab
物語に主体を見出すワタシは異常者なのね
そうか、物語は所詮媒体でしかないのか
そもそも言語という媒体自体が、解釈を介してしか内容を伝えられないものだから、解釈を嫌うこと自体が、言語という媒体の性質に対する見当違いなんだよね
どんなに描写を分かりやすく書いたつもりでも、作った人には180度違う解釈で人が救われる場合もあるから世界は面白いと思う
何故なら情報を伝達することが全ての表現の目的であって、そこを読み違えるのは作り手に対して失礼だと思っているからです。
これの話です
つまりそれは作者が想定すれば存在するし、必要かどうかは個々人が判断すること。
いま言われてる「正解」っていうのは、作者が受け手の受け取り方を想定してる作品について実際の受け手の受け取り方がその想定に合致してるっていう意味であって、辞書的な意味での正解ではない、と思う。
個人的に作品は作った人が何を伝えたいか読み取るのが全てだし、そういう視点でしか作品を見たことがない。
「作者が伝えたかったことを答えよ」という国語教育からの物語には正答となる解釈が存在するという勘違い?
あと、解釈の話に”正解”という言葉を用いるのは不適切な気がする
時に作者の想定を超えた飛躍があることで物語世界って深まるんじゃ無いのかな?
考察は作品に対する理解度の差があると噛み合わなくなるから、気の合う人としかしない。
作者の想定の範囲を超えた解釈をすることはダメなんですかね?作品をろくに見ていなくて劇中の内容と明らかにかけ離れた的はずれなものは除いて
自分が考察することが苦手な理由って”不正解の解釈”が許されない空気感があることなのではと思ったり
いち受けての解釈に対して”それ以外の解釈が出来ないぐらい明確さ”を求める事自体にとても違和感を感じる
芸術に正解って存在するの?というか必要?
その「考察」をただ置いていくか、他者に同意を強いるかというのはまた別の話。
もし的外れだったとしても「考察」を書いた側が困惑されるだけだけど、練りに練った作品を意図したとおりに読み取ってくれたひとがいるかいないかわからなかったらすっっっごい悲しくならない?ぼくはなる。
思考の /dev/null