(マヌル)ねこです。よろしくおねがいします。時々Assetto Corsaでレース鯖を開いています。
通るのか…(震
すごく個人的な興味として、例えばこの道を自動運転でちゃんとクリアできるかは気になる(運転手にどの石をどこにどけるか指示しないと通過できない)。本筋とはだいぶずれるけども
自分がいったい何を引き出したくてこんなことを言っているのかというと、煙草が現在経験しているような種類の、手動運転に対する事実上の締め出しという、未だ発生の兆候が見られない(技術的というよりも)社会的な現象が、現代の人間によって心配されるとき、それをいたって現実的な問題として人に心配させているのはいったい何なんだろう。
どのような状況にも人間と同等かそれ以上の対応ができるレベル5の自動運転車が現れたとして、それが本格的に普及する頃にはレベル2以下の自動車はクラシックカーとなり路上で見る機会がほとんど無くなるかもしれないレベル5の自動運転が路上を支配するまでに手動運転車の総数がリスクとして無視できるほどまでに減ったら手動運転が法的に締め出される未来も回避できるかもしれない
正直なところ、自分から言えるのは技術的な部分だけで、社会的な部分に関してはどうなる/どうならない、どうする/どうすべき、というのは何とも。
現在の技術者や為政者が将来的に路上での手動運転を違法にして締め出す将来を想定しているのかは甚だ謎だし、それを主張しているのはgoogleなどのごく一部の自動運転に熱心で急進的な企業に過ぎないそれくらい人間の認識が追いついていないし、何かしらの結論を出すのも困難な問題だろう
ここでそれを「ムリ」にしている障壁がミノフスキー粒子ないしサンドスターによって解決されたとして、それが生活に必要な道路に普及しつつ一部の無視できない道で走れないという状態では手動運転との併用が必要だけども、そこから十分「完全である」状態に移行したとき、それをどのようにして認め、そして何らかの時間経過を経て手動運転が締め上げられるとして、どのような過程を辿るだろう。
オートマチックトランスミッション、電気自動車、自動運転などのミライは、未だに日本やアメリカ、欧州といった先進国の一部の地域でしか夢見ることが許されない状況に変わりない完成車メーカーやサプライヤーもそれを分かっているから未だにトヨタは古臭い70ランドクルーザーを海外にせっせと売っている、アイシンAIはオートマチック全盛の時代にMTの技術開発をやめていないメディアや展示会で見せられているものは日本人向けに都合よく編集されたミライに過ぎない
https://www.suzuki.co.jp/car/entertainment/motorshow/2017/concept/e-survivor.html
スズキ e-SURVIVOR幹線道路では自動運転で、悪路や未踏の道は手動運転でという思想のコンセプトカー(少なくともスズキは)道路整備が整っていない環境下での完全自動運転はムリと暗に認めているともとれる
宇宙、空、海、地上では条件が違いすぎて単純比較はできないのでは?
山奥のほぼ未踏の道を人の操作なしで運転する技術が現行の技術開発のスコープに無いということを言っているのであって、したい/したくない の問題ではく、現行の技術開発がどこまで可能かという物差し。
逆に、もしかしたらこっちの方が重要な問題なのかもしれないけども、現行の交通ネットワークで、公共交通だけで生活を回すことが便利な地域(都市部)で、敢えて手動運転という手段を選択し続けるのは難しくなっていくとは思う。
山奥で自動運転が実現するための技術が現行の技術の延長上にない(これには補足が必要だろうか)以上、それを想定するのは宇宙人との共存共栄を心配するくらいの現実味と言ってもいいとおもうの
そうなると問題の所在は、地方の締め付けと、それを良しとする意思決定手続きということになるので、行政の愚かさを人々が生活できなくなるくらいの水準にまで想定したときに懸念される問題だと思うの
例えば手動運転車は諸々の料金が相対的に高くついたりするようになって、法的にどうこうじゃなくて「実質的に」許されなくなるかもしれんの
ここでの「文化的な営み」は言葉足らずだったけども、アルコールが弾圧されない根拠をそこに求めていて、ここでは節目に儀礼的な飲酒をするようなことをさして文化的な営みと称している
煙草がなぜ弾圧されるかといえば、それ無しでは生活が回らないものでもなければ、文化的な営みと密接に関わるものでもないからという事が重要な点としてあるので、少なくとも現行の技術の延長上に見える未来は、手動運転という行為なしで生活が成り立たない人々がまとまった数存在し続ける未来なのだから、それを心配する必要もなければ、あるいはそれを嘆くことは、嘆かわしいそれが起きるための土壌を作ってしまう事にすら繋がってしまいうると思うの。
手動運転という行為の未来がどのようなものであるかは、技術の問題というより人々の認識の問題なので、それを良しとするアクターの一人として絶えず振る舞うのが個人のできることなんじゃないかって
フジで月9な時点で駄作決定か(諦め)
予告からして駄作の予感しかしないのだが、実際観てモノホンの駄作だったら発狂してやる
思考の /dev/null