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金型のお代の問題もあるのは理解できるけど、3機種のべ10色ではなく代表色1色で5機種くらい欲しかった。一番悲しいのは、スライド担当がPanasonicになったことだろうか (三菱撤退後にスライド担当になったのは事実だが、絢爛期に2軸ヒンジやワンプッシュオープンという特徴があったわけで)

ガシャポン商品情報 ガラケーコレクション~docomo ver.~ gashapon.jp/products/detail.ht http%3A%2F%2Fgashapon.jp%2Fproducts%2Fdetail.html%3Fjan_code%3D4549660418016000

日本の携帯電話黎明期、はじめに神 (郵政省) は2枠の参入枠を用意した。民の全国事業者はなく、そこにはHiCAPとTACSがあった。神は仲良くしろよ?と威圧すると、東名地域の勇であるトヨタ (IDO) は縮こまり、ビッグブラザー (NTT) のHiCAPだけでなく、サタン稲盛 (DDIセルラー) が操るTACSをも使い出した。神が今度はデジタルあれ、と言うと、PDC (デジタルムーバなど) が生まれた。神は東名版では4つ、その他の地域では3つ枠をお作りになり、日産 (ツーカーホン), 日本テレコム (J-PHONE) が共同でその枠を占めた。この後音声通話のみという蒙昧な状態が続いていたが、ついにはショートメールというバベルの塔を建ててしまう。今でこそ同方式・会社間通信が可能になったが、当時はまったく互換性がなかったのだ!

そんな中NTTドコモはiモードを始め、話が前後するが800MHz PDCをそのまま採用していても勝ち目がないと思ったDDIセルラーとその意向を強く受けたiDOはPDCを止める方針でcdmaOneを始め、その直後にiモードに似たEZwebを開始する。この結果IDOの基地局には4方式の無線機が積載されたこともあったが、それはどうでもいい。DDIの東名地域参入の野望と日産の力のなさで発生したツーカーセルラー東京・東海、そして日産のツーカーホン関西ではPDCパケットをやっていなかったため、回線交換方式のままEZwebを開始する (これはDDI / IDOのデジタル (PDC) でも同様)。そしてJ-PHONEはJ-Skyをやはり回線交換方式で始めるのだった。その後バブル崩壊による不況や3G開始という大津波が訪れ、ツーカーが脱落したり日本テレコム・J-PHONEが外資にペンタックスの如く分割して買われたり、DDIセルラーが3GでW-CDMAを使うと宣言するも、外圧か金の面かで止めたりして、日本の携帯電話の成熟期は過ぎていった

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