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トヨタと住友銀行の話 

1950年、トヨタ自動車はドッジ・ライン恐慌に端を発する深刻な資金不足に陥っていた。トヨタは当時のメインバンクである帝国銀行、東海銀行、大阪銀行(住友銀行)に融資を打診した。しかし大阪銀行がこれを拒絶、名古屋市店長・小川秀彦が「機屋には貸せても、鍛冶屋には貸せない」とトヨタを侮辱する言葉を言い放つ。そしてあろうことかトヨタに対して貸し剥がしを始めるのであった。結局、日銀名古屋支店・高梨壮夫の斡旋により集められた大阪銀行を除く銀行団による緊急融資と創業者の豊田喜一郎が頑として認めてこなかった人員整理の断行、製販分離などの再建策によりトヨタは倒産の危機を免れた。しかし、この心労が祟ってか豊田喜一郎が1952年に急死してしまう。
倒産の危機において仇なされた恨み、創業者の命を(間接的ではあるが)奪われたトヨタ恨みは相当なものだったらしく、さくら銀行と合併するまでの約50年間住友銀行は一切の取引を禁じられた。
そしてこの一件で東海地方の企業には「いざというときは住友銀行は頼りにならない」という悪評が広まり、長らく同地域での苦戦を強いられることとなるのであった。

トヨタと住友銀行の話 

時は流れ2001年、さくら銀行(旧帝国銀行)と住友銀行が合併して三井住友銀行となり、晴れてトヨタのメインバンクに復帰した。しかしトヨタは住友銀行への恨みを忘れていないらしく、取引の窓口に旧住友銀行の人間が立つことを許さないそうだ。

トヨタと住友銀行のこぼれ話 

1959年、住友銀行をメインバンクとしていたプリンス自動車工業の販社社長に小川秀雄が就任する。その数年後、グロリアの販売不振などによりプリンスは赤字に陥る。またプリンスのグループ企業であったタイヤメーカーのブリヂストンもプリンスのライバルメーカーから取引を断られる始末であった。当時ブリヂストンとプリンスの会長を兼任していた石橋正二郎(ブリヂストンの創業者)はそんなプリンスを疎ましく思っていた。小川を送った住友銀行の頭取・堀田庄三と協力の下、プリンスの救済も兼ねた身売り先探しが始まった。最初に買収話を持ちかけたのは住友グループと関係が深い東洋工業(マツダ)であったが、当時の社長・松田恒次がこれを拒否したために頓挫した。次に石橋はトヨタに目をつけた。これはトヨタのメインバンクに復帰したい堀田の思惑とも一致した。しかしトヨタの石田退三会長が「鍛冶屋の私どもでは不具合でしょうから」とこれを拒絶した。石田はトヨタが危機に陥っていた1950年当時の副社長、かつて住友銀行からされた仕打ちを忘れるはずもなかったのだ。後にプリンスは日産自動車に吸収合併されることで落ち着いた。

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