>「精神病は薬で作っている」「LGBTなんかいらない」「ワクチンが先にあって売るためにウイルスを撒いた可能性ある」「打てば打つほど死ぬと言われている」
「LGBTなんかいらない」参政党・神谷議員が発言。産経新聞後援イベントで | 黒猫ドラネコ【トンデモ観察記】 https://kurodoraneko15.theletter.jp/posts/4eeb9000-217e-11ee-8078-2be177801829
「市井の女」が「普通の日本人」とまったく同じ機能を持つというのは能川さんの指摘通りですが、「普通の女性」という言い方自体は、フェミニズム/女性運動の内部や周辺では目新しいものではありません。
私が直接見ていた文脈だと、それこそ今世紀初頭のバックラッシュ期、「ジェンダー」みたいな外来語は「普通の女」にはわかりにくい、「LGBT」とか言われても「普通の女」には関係ない、バトラーがどうとか言ってる一部の学者はそういう話をするかもしれないけれども「普通の女」の問題はそこではない、みたいな。
マイノリティを「外来」かつ「エリート」と重ねて排除する手つきは完全に現在の「市井の女」と(そして反ジェンダー運動と)同じなのですが、それでは2018年以降のトランス排除激化において「普通の女」が引き継がれるのではなく「市井の女」が採用されたことに、どういう効果があったのか。
おそらくですけれども、SNSの女性/フェミアカウントを中心にトランス嫌悪が拡大広められていったこの時期、「普通の女」の使用はまだ微妙な抵抗を持って受け止められたのではないか。
→ 「市井の女」を誰が持ち出したのか私は確認していないけれども、その意味ではこれはとてもbrilliantな用語選択だったと思う。
「普通」とまったく同じマイノリティ排除の機能を保持したまま、「反・外来エリート」の側面を強調しうる言葉遣いだったのだから。
「普通」の持つ多数派中心性とその裏面である少数派排除の色合いを糊塗し、つまり、すでに指摘され共有されつつあった「普通の人々/普通の女」の権力性を切り離して、むしろ自分たちを「権力や特権をもたないもの」として改めて位置付けるのに、「市井の女」は最適だったのだろうと思う。
自分たちはただのそこら辺の街に集う庶民である、だとすれば自分たちを批判し攻撃する「市井の女」でないものたちは、特権を持った自分たちとは馴染みのない存在、地に足のついていない存在であって、そのものたちの主張は庶民の生活感覚(あるいは安全意識)からは遠く離れたものなのだ、と。
死は不幸ではない 生は幸福ではない