「宗教は麻薬だ」という有名なフレーズを知って宗教を敵視する人がそれなりにいると思うが、これは「現実の耐え難い苦痛に苦しみながら生きてゆくためには、宗教という麻薬のチカラで苦痛を和らげないととても耐えられない。」という話なのだと思っている。
手短に言うと【麻薬と言っても害毒ではなく鎮痛剤】
哲学ではモノを考えるにあたって「出発点としてこれだけは確かなことだ」という手法がよく使われるが、それが無ければ言葉はふわふわしてしまって厳密な話ができない。そして哲学ではない日常生活の思考での揺るぎない出発点は何か?という時にその役割を形にしたモノが宗教だと思う。例えば「死ぬのは恐ろしいがどうすればその不安から逃れることができるのか?」この不安を簡単に解消するために例えば「死後も世界がある」という設定を真実として語る。これが信じられれば安心して日常に戻れる。こういうのが宗教の使命だろう。
だから宗教は麻薬だけと撲滅しようとしてはいけない。
昨日の倉田真由美の「姥捨て山」推奨発言だが、私の衰えてきている「短期記憶」で振り返っても、ここ数年、落合陽一、古市、たかまつなな、成田悠輔などTVタレントが、ほぼ同様な提言を繰り返し行っている。
これは、TVと政府自民党が結託して、可能なら世論誘導、無理なら観測気球と「サブリミナル効果」を狙って、意図的・周期的に流している、と考えるべきだろう。
実際、これまた定期的に流れてくる「世代間対立」を煽る言説にさらされた「若い世代」には、或る程度「刷り込み効果」は出ている。
昨年の選挙でも、「手取りを増やす」=「社会保険料」減額を唱える国民民主と石丸への支持がほぼー世代的にもー重なっていることはそれを如実に示している。
ただし、40後半になると、「世間はそんなに単純ではない」こともわかってくるし、そろそろ自分達が「切り捨てられる側」になることを予感して、国民民主=石丸的なものへの支持は下がって来る。
そこで宇野常寛のように高齢者の票は「2分の1」にカウントすべき、という悪辣な主張をする「文化人」も出てくるわけだ。
しかし、常識的に考えれば軍事費を削減し、富裕層と大企業に応分の負担を求めれば、財政的にはまだ十分に余裕がある。しかし、何故かマスコミはこの選択肢を絶対に提示しない。
死は不幸ではない 生は幸福ではない